受膏者

朝、私は珈琲を淹れると、パソコンの電源を点けた。毎週土曜日の10時半から開催される、Zoomによる聖書の読書会に参加するためだ。これは立教大学のチャペルが企画しているもので、もう2年以上お世話になっている。

今日のテキストの範囲は『マタイ傳福音書』28章1-10節。復活したキリストの姿を、使徒に先んじて、マグダラのマリアなどの女性たちが目撃した場面だ。

いろいろと思う所がある。まず、イエスの死後3日目に彼の墓を訪ねたのは、男性の使徒ではなく、女性たちだったということである。イエスの受難(処刑)を見届けたも女性であったし、復活したイエスに最初に再会したのも女性であった。その頃、男性の使徒たちは、ペテロのように「私は知らない」とイエスを否認して、方々に散って行った。

「キリスト」というギリシア語の語源は、ヘブライ語の「メシア」で、「救世主」ないし「受膏者」という意味がある。「香油を注がれし者」という意味である。『マタイ傳福音書』だと、26章にその記述がある。

イエス、ベタニアにて癩病人シモンの家に居給ふ時、ある女、石膏の壺に入りたる貴き香油を持ちて、近づき来り、食事の席に就き居給ふイエスの首に注げり1

『新約聖書』において、キリストはなぜか女性に香油を注がれるのである。私はそこにエロスを見る。イエスは神の子として生れ、この世で様々な奇蹟を演じたが、それは彼の本領ではなかった。イエスは女性に祝福されて、その愛の働きによって、初めてキリストになったのである2


  1. 『マタイ傳福音書』26章6-7節。
  2. ボーヴォワールの『第二の性』の表現をもじれば、「人はキリストとして生れるのではない。キリストになるのだ」。