魂の夜の続き

魂の夜が続いている。クリスチャンであれば、神が、キリストが救ってくれるではないか、と思われるかもしれないが、神はときどき人を荒野に置き、試練をするので、仕方がないと思う。キリスト教が現世御利益を保証するような宗教であれば、私は信仰しなかっただろう。来世で報われるという説があるが、私は来世に関心を払う余裕がない。現世のことで精一杯である。

医学的には躁鬱病に違いないが、意味の崩壊がこの病気の症状なのかは分からない。「世界がバラバラになるのを感じたら、釣りに行こう」と、開高健は言ったが、趣味のない私は会社に仕事に行くか、教会に礼拝に行くしかない。

この頃、牧師になるように勧められる。そう言って貰えるのは嬉しいが、教会の位階制ヒエラルキーに私の神経が耐えられるのか、という問題がある。会社はもちろん、部活でも駄目なのに、教会で果たしてやっていけるのだろうか。新卒で就職して、定年まで勤め上げる人(かつ浮気をしない人)がもっとも牧師に相応しいのではないかと思うが、そうなると、聖職はもとより、教会ぜんたいの魅力が失われるので、私のように紆余曲折がある人間が一定数いた方がいいのだろう。とまれ、今は修業の時と心得ている。

先日、阿佐ヶ谷聖ペテロ教会で、納涼祭があったので、写真を付す。しかし、明らかに鬱の気配があるな、と思うこの頃である。しばらく躁が続いたので、その反動が来たのかもしれない。