明朗なる絶望

飛べない君は歩いていこう
絶望と出会えたら手をつなごう1

夕食後、ひと眠りしたら気分が良くなった。洗濯をした後に読書を少々。それからPCに向かう。

ライターないしWEBライターの正社員としての転職を考えているが、正直85%は無理だと思う。15%の希望のぞみはあるではないか、と思われるが、無理だった時のことをちゃんと考えなければならない。

私の悲観的観測には理由がある。

経歴の断絶

私のメディア人、出版人としての経歴キャリアは、出版社の派遣社員の事務員を最後に2017年で終わっている。その後3年間の介護職員としての毎日は爪を研ぐ、雌伏の日々だったかもしれないが、出版人としての私は死んだも同然だった。それが悔しくて、2019年にはブログを始めて、2022年には個人事業主のライターとして開業したが、未だに私は出版業界に戻れずにいる。忸怩たる思いである。

ビジネス向きではない

読者諸氏はご存じのように、このブログは病気と政治と宗教に満ちている。自分で言うのもなんだが、ぜんぜん健全ではない。市民的でもない。善良で快活で節度を弁えている市民は普通こんな文章は書かないのだ。別に公安に目を付けられている訳でもないが、世間は受け入れがたいと思う。いわんやビジネスをや。こういう鋭った人々エッジピープルの見解は学問文芸まで昇華しなければ容れられることはまずない。その意味で日本の文壇はアブノーマルな心性が支配しているという、伊藤整の指摘は正しかった。

そうなると、やるべきことはおのずと決まってくるが、経済生活、職業生活について思いを馳せていると、武者震いがしてくるので、今夜は酒を飲むことにする。いい白ワインが冷えているんだ。


  1. BUMP OF CHICKEN「Stage of the ground」。

酒徒と学徒

南海先生、性酷だ酒を嗜み、また酷だ政事を論ずることを好む。

『三酔人経綸問答』の作者、中江兆民はアルコール中毒を理由に国会議員を辞めたが、彼は晩年、喉頭癌に侵されるまで、終生、酒を飲み、政治を論じることを止めなかった。彼の職業は文人。政治学者ではない。——私の中に彼と同じ血、同じDNAが脈々と受け継がれているのを感じる。

いま、こうして原稿を書いている時でも、私はワインをちびちびっているのだが、近頃ではお茶を飲んでも、珈琲を飲んでも、いまいち元気になれない。だから酒に頼ることになるのだが、この気分の落ち込み様は内因性ではなく外因性ではないかと思える。要するに気鬱のせいではなく、酒毒のせいではないかと思うのだが、すると、私も中江兆民と同じ轍を踏むのかもしれない。歴史の中に己と似た人物を見つけると、旧友と再会したような懐かしさを覚えるが、その壮絶な運命を知ると慄然たる気持になる。

民主主義の涵養にはコーヒーハウスが主導的な役割を果たすのに対し、ビヤホールといえばナチスの溜場たまりばの印象がある。政治と珈琲の関係については先行研究がたくさんあるのだが、政治と酒の関係については管見にして知らない。キリストの最後の晩餐を待つまでもなく、宗教的秘義に酒は不可欠なくてはならないものであったが、政治はどうだったのだろう? おそらく古代の祭政一致の政事まつりごとでは御神酒は欠かせなかったが、のちにキリストは使徒たちに「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」と教えた。以後、政治と宗教は分裂し、それぞれ別々の道を歩み始めた。キリストの死と復活はそのメルクマールだったのである1


  1. しかして、キリスト教は古代宗教ではない。

力と愛の社会学

学生の頃は政治学を専攻していたので、権力とその最大の機関である国家については自ずと勉強していた。しかし、学校を出て、労働者1として、その日稼いだパンをそのまま口に運ぶような生活を続けていると、国家よりもむしろ、それが統治する社会の方に鋭く関心が向き始めてきた。特に文士ライターとして文章を書くことを志すようになってからは、社会とそこに生きる人達を書くことが自身の使命なすべきことのように思えてきた。人間を書くには文学が必要なように、社会を書くためには社会学が必要だ。人は歳を重ねることで、社会(世間)に対し、漠然たるイメージを抱き、それを若者に話したくなる衝動に駆られるけれど、社会の本当の姿、その本質については、そのような床屋談義、酒場談義で開明できるものではない。ドイツ語のBegriffは「概念」であると同時に「理解」するという意味であるが、そのレベルまで昇華しなければならない。

とは言うものの、私は社会学に不案内である。それは私の場合「社会を知らない」ことを意味する。今後、私が社会学を理解する仕方は、政治学を経由した社会学、文学を経由した社会学になるだろう。その際の鍵となる概念は、権力ちから恩寵あいである。これは私の人生の主題テーマと言っても過言ではない。結局、私は政治学と文学の魅力(魔力)から逃れられないのである。


  1. 社会人という言葉より、労働者という言葉の方が事態を表すのに正確なように思える。

トマス・ホッブズと碇シンジ

職務経歴書を見返していると、その頃、自分が何に苦しんでいたのかをまざまざと思い出す。トラウマは人間の苦痛や苦悩、あるいは恐怖が痼疾となって、現存在そのひとの思考と行動の障害になることであるが、してみると、人間は嬉しいこと、楽しいことよりも、辛いこと、苦しいことの方が、無意識のレベルで覚えているのではないだろうか。一見、快楽に引き寄せられているように見えても、実際は、苦痛と恐怖を回避しているに過ぎない。ホッブズは恐怖は人間の最大の情念であり、それを避けるために共通善コモンウェルス(共同体)を建設すると主張したことは今では正しいと思える。それはネガティブな動機に見えるが、地上に生きる人間が自由を手に入れるための堂々たる方法なのだ。「嫌なことから逃げ出して何が悪いんだよ」碇シンジも言っているではないか。

フォースターの場合

賃労働アルバイトの賃金が10円上がった。経営側の意向が反映されたらしいが、正直、この程度では何も変わらない。私の時給は13∗∗円のまま据え置きである。副収入を含めると月収手取り20万を越えるが、三十代男性の収入としては悲惨である。事業ビジネスと清貧は相容れない。後者は年金生活者の理想である。たぶん修道士も否定するだろう。学究生活には金がかかるのだ。冗談はさておき、年相応の思わぬ出費が嵩むのである。

イギリスの小説家 E・M・フォースターは晩年、自身の作家生活を回顧して語った。「私は金のために小説を書いた」文学は金になるか、ならないか。小説は金のために書くべきか、書かざるべきか。このいやらしくシンプルな論争は文学史の通奏低音として鳴り響いているが、作家の作品を書く動機は問わない、という結論で一致している。それは究めがたく、道徳的判断は相応しくないのかもしれない。

私にとって、少なくとも原稿料、すなわち金を稼げるようになることは、ライターとして一人前になったことの証である。今年、山谷の修道院の取材を終えたら、来年の新しい企画プロジェクトに向けて動き始める。金を稼ぐのはその主たる動機である。

反省と経験

昨夜、酒を飲むこと、煙草を吸うことについて、バーテンダーにつべこべ言われたが、一夜明けた今になってみれば、どうでもいいことのように思える。他人にどうこう断裁されたくなければ、家でやればいい、ただそれだけのこと。これだから外は疲れる。こんな経験を積んでいると、もう酒場バーに行きたくないということになってしまうが、客と店主が互いに気心の知れた店があればそれでいいので、梯子酒バーホッパーする必要はどこにもない。むしろ、コロナ禍に限らず、近頃の私は心理的にそこから遠のいているので、わざわざ高い金を払って外で飲む理由は失われ始めている。結局、家の書斎で飲む酒がいちばん美味い。

酒場の説教に、私が自省しない、反省しない、サイコパスな人間のように言われたが、それは正しいと言えるし、正しくないとも言える。確かに私は他人から言われ、強いて我が身を省みたことはほとんどない。自身に対する他人の影響力が極端に薄い人間なのだ。けれども、まったく反省しないかと言えば、それも正しくない。自分の中で、言葉にならない、モヤモヤした気持を抱え続けたまま、ある日突然、悟ることがある。あれは/これは悪だったんだ、反省しなければならない、と思う瞬間がある。結局、反省という極度に内面的な行為は、他人に強いられてできる事ではないのだ。経験という痛みを伴う過程が絶対に不可欠である。

文士と介護福祉士

友達の結婚式のスピーチを担当したら、望外の原稿料を貰った。友達、それも慶事にことづけて仕事を貰うなんて卑怯じゃないかと思われるかもしれないが、駆け出しの頃に友達から仕事を貰うのはむしろ光栄なことなので、有難く事業所得として計上した。世の中、どんなにインターネットが発達しても、最初に事を始めるのは、常日ごろ自然に顔を突き合わせる友人、知人なので、私はこれからも偶然/必然の直接の出会いを大事にしたい。私にとって社会的距離ソーシャルディスタンスは意味をなさない。人々は社会あつまりを必要としているのだ。

来年、精神保健福祉士の課程を受講することを検討していたが、これは撤回することに決めた。東京に居るうちは文士ライターとして頑張りたい。首都の地の利を生かさない手はないのだ。

夜勤をしない/できなくなった時点で、私は特別養護老人ホームの職員としては2級の戦力に過ぎない。少ない給料、少ないボーナスに甘んじるのは仕方ない。10月から週5日で働くことが決まったとはいえ、早急に対策を講じなければならない。私は出版業界への出戻りを狙っていると同時に、介護・福祉業界のキャリアも育てたいと思っている。二兎追う者は一兎を得ず、二足の草鞋は止めなさい、と言われそうだが、本人がそれで矜持プライドを持って働きたいと思っているから仕方ない。介護福祉士の資格を生かして、介護ライターとして転職したい。あるいは個人事業主としてすでにライターなのだから、企業に就職する際は編集者、宣伝/広報担当者でもまったく構わない1。ライターと介護福祉士のキャリアを両方伸ばすには、これが最適解ではないだろうか。現場に身を置くだけが仕事のすべてではないのだ。精神保健福祉士の資格は東京を離れてからで構わない。今は東京の巷間を駆け抜けたい。


  1. ちなみに私には書籍編集者としての資質、才能はまったくない。しかし、WEB編集者は未踏の領域なので、腕試しをしたい。私はコードが書ける。