反省と経験

昨夜、酒を飲むこと、煙草を吸うことについて、バーテンダーにつべこべ言われたが、一夜明けた今になってみれば、どうでもいいことのように思える。他人にどうこう断裁されたくなければ、家でやればいい、ただそれだけのこと。これだから外は疲れる。こんな経験を積んでいると、もう酒場バーに行きたくないということになってしまうが、客と店主が互いに気心の知れた店があればそれでいいので、梯子酒バーホッパーする必要はどこにもない。むしろ、コロナ禍に限らず、近頃の私は心理的にそこから遠のいているので、わざわざ高い金を払って外で飲む理由は失われ始めている。結局、家の書斎で飲む酒がいちばん美味い。

酒場の説教に、私が自省しない、反省しない、サイコパスな人間のように言われたが、それは正しいと言えるし、正しくないとも言える。確かに私は他人から言われ、強いて我が身を省みたことはほとんどない。自身に対する他人の影響力が極端に薄い人間なのだ。けれども、まったく反省しないかと言えば、それも正しくない。自分の中で、言葉にならない、モヤモヤした気持を抱え続けたまま、ある日突然、悟ることがある。あれは/これは悪だったんだ、反省しなければならない、と思う瞬間がある。結局、反省という極度に内面的な行為は、他人に強いられてできる事ではないのだ。経験という痛みを伴う過程が絶対に不可欠である。