Alpha and Omega

会社の仕事がまだ一人前にできないので、もどかしい気持でいる。私が早く大量に記事を書くことで、会社の利益に貢献できればいいのだが。

それに加えて、会社の仕事をただこなしているだけでは駄目で、今後、ライターとして第一線に立ち続けるためには、己の中に軸を持ち続けなければならない。政治学、哲学、経済学などの雑駁な読書を続けているが、これらの読書が今後の仕事に明確に繋がっていくような気配が感じない。要するに仕事として太刀打ちできないのだ。

知己の編集者が担当した新書『経済学者の栄光と敗北』を読む。著者の東谷暁さんは雑誌編集者をやりながら、よくここまで経済学を勉強されたと感心する。前書きに、軽い読み物なので、どうかリラックスして読んでください、と書かれているが、その実、全然軽くない。著名な経済学者の特徴と欠点を突く野心作である。読者も相当の覚悟をもって臨まないと理解することができない。後日、勉強し直して、再び紐解きたい。

繰り返しになるが、ライターとして第一線で書き続けるためには、何でも書ける器用さ、節操のなさを持つと同時に、自分の専門を持たなければならないと思う。私の場合、政治学、政治哲学がよろしいのではないかと思う。学生ではあるまいし、今さら何を言っているんだ、と思われるかもしれないが、昔も今も、そしてこれからも、私がもっとも詳しく、そしてセンスのある領域はこれ以外にないのだ。それに政治学、畢竟、政治哲学であれば、私のクリスチャンとしての信仰を活かすことができるし、当然、現実政治に取材することができる。

結局、己の最初の関心を最後まで貫き通した者が勝つ。「アルファであり、オメガである」。

文語から口語へ

私は普段、『聖書』は文語訳を読んでいるのだが、この頃は口語訳もいいな、と思うようになった。やっぱり、普段使っている言葉の方が頭にすっと入ってくるのである。

『詩篇』136:23を比較してみよう。まずは文語。

われらが微賤いやしかりしときに記念したまへる者にかんしやせよ
その憐憫あわれみはとこしへに絶ゆることなければなり

次に口語。

われらが卑しかった時に
われらをみこころにとめられた者に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

文語訳の「記念」という言葉の選択はすごくいい。日常の言葉の使い方からちょっと外れていて、そのためにハッとさせられる。

口語の「みこころにとめられた」という言葉も美しい。『新約聖書』は1954年に、『旧約聖書』は1955年に訳された。丸谷才一は口語訳『聖書』は悪文だと言ったと、どこかで聞いたが、現代の感覚から見ると、この口語訳はけっこう古めかしいクラシックな言葉の選択をしている。

次は『ヨハネ福音書』15:11である。まずは文語。

我これらの事を語りたるは、我が喜悦よろこびの汝らに在り、かつ汝等の喜悦よろこびの満たされん為なり。

次に口語。

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

この一節は私は文語に軍配を上げたい。まず、「喜悦よろこび」というルビ遊びがいい。挑戦的な日本語だと思う。論理的にも分かりやすくて、文語のよさが余すことなく伝わる。戦後、日本語は感覚的で非論理的な言語と、知識人のあいだで言われたが、文語に関してはそれは当てはまらないように思う。やはり、文語はその名のとおり、書き言葉なのだ。

それでも、口語も悪くないな、と思う。この訳は、新改訳、共同訳とも違って、説教壇に立って、朗々として読み上げるのに相応しい文章だ。戦後の灰塵の中、再び建ち上がろうとしたクリスチャンとその教会の矜持を読み取ることができるのだ。

喫煙文化

私が煙草を吸い始めたのは2020年の夏、33歳の頃である。

遅番の勤務のあと終電を逃したので、北千住で夜を明かさなければならなくなった。酒場の多くは閉まっているし、どこにも行く当てはない。手持無沙汰で街を歩いていると、ふと煙草を吸ってみようと思い立った。初めて吸った銘柄はHOPEである。

高校生、大学生の頃、私は大の嫌煙家で、それで父と不仲になったくらいだが、実は密かな憧れがあった。読書はそこそこしていたので、自然、文学者、哲学者に憧れるようになった。写真で垣間見る、彼等の煙草を吸う仕草が眩しかった。思索/詩作には煙草と珈琲が相応しいようだ。

喫煙の動機はさまざまである。文化、芸術への憧れ以外に、苛酷な、劣悪な環境がその人に煙草を吸うように強いる側面も否定できない。兵隊は必ず酒と煙草を覚えて帰ってくる。介護の現場の同僚は本当によく酒と煙草をやった。飲酒、喫煙は習慣ハビトゥスであるが、それ自体は文化ではない。これらの嗜好品は上手く使えば、文化を促進するが、下手に使えば文化を破壊する。それ丈のことである。

前置きが長くなった。私は主に紙巻とパイプを嗜むが、この頃、既成の紙巻シガレットを買うのが億劫になってきた。私の好きなPeaceは現在600円もする。お財布に痛いだけではない。理由はよく分からない。パイプ煙草を買い求める時はこうはならないから不思議だ(むしろ、銘柄を選ぶ楽しみがある)。

それなら、煙草を辞めればいいじゃないか、と言われそうだが、そうはいかない。煙草と珈琲の組み合わせは、読書と執筆を促す。文化そのものではないが、文化(活動)を助ける側面がある。作家/芸術家の喫煙率が高いのは、それなりに理由があると思われる。酒だとこうはいかない。

ゆえに、私は今、既成の紙巻煙草を買い控えて、むしろ手巻煙草に楽しんでいる。経済的なだけでなく、自分の手で煙草の量を調整できるのがよろしい。近年の嫌厭の逆風に負けず、煙草で自身に喝を入れて、読書と執筆に勤しむ次第である。

しみじみ随筆

会社の新聞の次号の1面を担当することになった。当然、文章は長くなるし、リード文、図表(グラフ)も必要になる。構成がモノを言う。要するに紙面の顔なのだ。さすがに緊張する。上司に訊いた。

「介護現場から、ぱっと出の私が書いていいんですか?」

「だって、君は編集の経験があるでしょう?」

「そうですけど。むしろ、これが本来の仕事だと思っています」

「朝日とか、読売のように、うちはゆっくりOJTは出来なくてね。書ける人が書く」

そりゃあ、任せてくれるのは嬉しいけど、新聞記事はブログとは違って、作者の主観的なお気持を書くのではなく、客観的な事実(その定義は難しいけど、ここでは措いておく)を書かなければならない。違う技術が要求される。キーボードを敲きながら苦吟していると(詩じゃないんだからwww)、随筆ならば楽に書けるのに……一瞬、記者を辞めて、作家に転向しようかしらと思った。「クリスマスのミサが終わり、外に出ると、線路には雪が積もっていた」。こういう文章を、作家/文学者の小谷野敦は『軟弱者の言い分』で「しみじみ随筆」と定義した。確かに随筆は作者の感性と人格に拠るところが大きいが、場数をこなせば何となく書けるのである。基本的に技術と経験の問題である。もちろん、一流の作品はそれに+αが必要だが。

ということで、会社ではひたすら客観的な無味乾燥な記事を書いて、自宅では思い切り主観的なしみじみとした随筆、短歌、小説を書く次第である。なんだ、今までと大して変わらないじゃないか!

走りながら考える

今日は終日ひもすがら眠くて、怠くて、ほとんど仕事にならなかった。日刊紙の記者ならばこれでは済まされないが、週刊紙ならば、校了に向けて調子を合わせれば、なんとか間に合う。ノンビリしたものである。夕食は小岩の若竹で、味噌ガーリックラーメンを食す。そして、葛飾の陋屋に向かってとぼとぼ歩く。こんな日もあるよね。

転職を機にシフト勤務を止めて、平日は規則正しく会社に通うようになったら、体調が良くなった。そして、酒場通いもピタリと止めた。いや、たまには羽目を外すこともあるけど、仕事のパフォーマンスを上げることを第一に考えるようになった。すると、今までのような酒浸りの生活では立ち行かなくなることに気づいた。その前兆はすでにあった。中年に差しかかるにつれて、今までのように深酒と夜更かしができなくなった。身体が持たない。肉体は思想よりも正直である。

無頼派の私が多少、品行方正になったのは他にも理由がある。今後、ライター/ジャーナリストとして糊口を凌ぐには、働きながら学ばなければ、立ち行かないのである。書きながら読む。「走りながら考える」。昔、朝日新聞で派遣社員をしていた頃に、或るコワモテの役員が聞かせてくれた言葉である。まあ、これからも適当に酒と煙草はやるけどね。これは生活に適度に刺激を与えてくれるスパイスのようなものだ。それは時に飛躍のための起爆剤になる。

宮本武蔵と吉岡一門

会社のPCにWindows Subsystem for LinuxのDebianを入れた。Debianのaptを通じて、TeX、Pandocなど執筆に必要なツールをインストールすることで、ようやく本格的に仕事ができる感じだ。私にとって、Word、Excelなどのオフィスソフトよりも、こういうテキストファイルからバイナリファイルに変換してくれるコンパイラの方が大事なのね。さっそく、TeXを使って、企画書を1点提出した。

私は技術に固執する変なライターだけど、私の執筆は技術とともに歩んできたから、致し方ないのである。ライターは、手取り足取り他人に教えてもらって、育つものではない。宮本武蔵のように他人の業を参考にしながら、自分のスタイルを作るのである。史実はどうか分からないが、武蔵はたった一人で吉岡一門を壊滅させた。吉川英治の吉岡一門に対する筆致は辛い。お稽古事、あるはお習事として、武道(小説道)を歩む者の先には死が待ち受けている。逆に武蔵のように独学で自らを育てた者は生きるのだ。芸事の難しさはここにある。

なので、職場でも個々の執筆のツールは最大限尊重される。使いたいものを使っていいよ、と。現場の第一線で働くライターは自らを育てて来たし、皆、そのことを理解している。ライターを育てる学校はないし、ジャーナリストを育てる学校もない。現場で覚えなさい、としか言いようがない。結局、場数を踏んだ人間が勝つんだ。学校はそのための準備機関(期間)として大事だと思うけどね。だから、そこに居る間はうんと教養を積んだ方がいい。読書をした方がいい。現場ではゆっくり本を読む暇はないし、問題に直面した時、解決のヒントをくれるから。

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朝カレー おかわり!

昨日、『塔』の原稿を職場の最寄の郵便局に出しに行ったときのことだ。

先客が居たので、窓口に並んで待っていると、「整理券を取って、待っていてください」と、受付のおねーちゃんに言われた。

ここはそういうシステムなのか。ビジネス街だから、来客が多いんだろうな。それくらいに思っていた。

「18番さーん」

番号を呼ばれて窓口に行くと、私は封筒を差し出して、「普通郵便でお願いします」と言った。

「到着の日時の指定はありませんね?」わざわざ訊いてくれるなんて、慎重な人だなと思った。「はい。特にありませんよ」また、身長の高い子だな、とも思った。

「カレーもいかがですか?」一瞬、何を言っているのか分からなかったが、窓口に確かにカレーが置いてある。ポークカレーだったように思う。

「カレーは今朝、食べてきたんだよ」

「ええ、そうなんですか! 夜もいかがですか?」

まだ、家の鍋にルーが残っていたので、それは丁重にお断りしておいた。コンビニで会計の際、「フライドチキンもいかがですか?」と訊かれるのに似ている。

支店の営業方針で、カレーの販売を強いられているんだろうな、と思うのは簡単だが、出勤前、おねーちゃんのはにかむ姿を見て楽しくなった。彼女がアドリブで返したとっさのひと言が、毎日のルーティンに風穴を空けるのだろう。

今日は良い日になるな、と思った。