喫煙文化

私が煙草を吸い始めたのは2020年の夏、33歳の頃である。

遅番の勤務のあと終電を逃したので、北千住で夜を明かさなければならなくなった。酒場の多くは閉まっているし、どこにも行く当てはない。手持無沙汰で街を歩いていると、ふと煙草を吸ってみようと思い立った。初めて吸った銘柄はHOPEである。

高校生、大学生の頃、私は大の嫌煙家で、それで父と不仲になったくらいだが、実は密かな憧れがあった。読書はそこそこしていたので、自然、文学者、哲学者に憧れるようになった。写真で垣間見る、彼等の煙草を吸う仕草が眩しかった。思索/詩作には煙草と珈琲が相応しいようだ。

喫煙の動機はさまざまである。文化、芸術への憧れ以外に、苛酷な、劣悪な環境がその人に煙草を吸うように強いる側面も否定できない。兵隊は必ず酒と煙草を覚えて帰ってくる。介護の現場の同僚は本当によく酒と煙草をやった。飲酒、喫煙は習慣ハビトゥスであるが、それ自体は文化ではない。これらの嗜好品は上手く使えば、文化を促進するが、下手に使えば文化を破壊する。それ丈のことである。

前置きが長くなった。私は主に紙巻とパイプを嗜むが、この頃、既成の紙巻シガレットを買うのが億劫になってきた。私の好きなPeaceは現在600円もする。お財布に痛いだけではない。理由はよく分からない。パイプ煙草を買い求める時はこうはならないから不思議だ(むしろ、銘柄を選ぶ楽しみがある)。

それなら、煙草を辞めればいいじゃないか、と言われそうだが、そうはいかない。煙草と珈琲の組み合わせは、読書と執筆を促す。文化そのものではないが、文化(活動)を助ける側面がある。作家/芸術家の喫煙率が高いのは、それなりに理由があると思われる。酒だとこうはいかない。

ゆえに、私は今、既成の紙巻煙草を買い控えて、むしろ手巻煙草に楽しんでいる。経済的なだけでなく、自分の手で煙草の量を調整できるのがよろしい。近年の嫌厭の逆風に負けず、煙草で自身に喝を入れて、読書と執筆に勤しむ次第である。