文語から口語へ

私は普段、『聖書』は文語訳を読んでいるのだが、この頃は口語訳もいいな、と思うようになった。やっぱり、普段使っている言葉の方が頭にすっと入ってくるのである。

『詩篇』136:23を比較してみよう。まずは文語。

われらが微賤いやしかりしときに記念したまへる者にかんしやせよ
その憐憫あわれみはとこしへに絶ゆることなければなり

次に口語。

われらが卑しかった時に
われらをみこころにとめられた者に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

文語訳の「記念」という言葉の選択はすごくいい。日常の言葉の使い方からちょっと外れていて、そのためにハッとさせられる。

口語の「みこころにとめられた」という言葉も美しい。『新約聖書』は1954年に、『旧約聖書』は1955年に訳された。丸谷才一は口語訳『聖書』は悪文だと言ったと、どこかで聞いたが、現代の感覚から見ると、この口語訳はけっこう古めかしいクラシックな言葉の選択をしている。

次は『ヨハネ福音書』15:11である。まずは文語。

我これらの事を語りたるは、我が喜悦よろこびの汝らに在り、かつ汝等の喜悦よろこびの満たされん為なり。

次に口語。

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

この一節は私は文語に軍配を上げたい。まず、「喜悦よろこび」というルビ遊びがいい。挑戦的な日本語だと思う。論理的にも分かりやすくて、文語のよさが余すことなく伝わる。戦後、日本語は感覚的で非論理的な言語と、知識人のあいだで言われたが、文語に関してはそれは当てはまらないように思う。やはり、文語はその名のとおり、書き言葉なのだ。

それでも、口語も悪くないな、と思う。この訳は、新改訳、共同訳とも違って、説教壇に立って、朗々として読み上げるのに相応しい文章だ。戦後の灰塵の中、再び建ち上がろうとしたクリスチャンとその教会の矜持を読み取ることができるのだ。