昨夜は四ツ谷のモツ焼き屋で、私も含めた同僚4人で飲んだ。基本的にいつものメンバーだが、同僚の一人が8月に入社した新卒の後輩をオルグしてきたので、大いに盛り上がった。
サラリーマンが集まると、ヤキトリを頬張りながら、仕事や上司の愚痴を零す姿が目に浮かぶが、私達はそんなことはない。確かにゴシップの華を咲かせるが、昨夜は出版、哲学、政治、宗教の話で大いに盛り上がった。誤解を恐れずに言えば、社会人になってもこういう高等な話ができるのが凄く嬉しいし、その点、出版に戻ってきて良かったと思う。
程よく酔いが回ってきた頃に後輩がぼそっと言った。「兼子さん、やっぱり、文章うまいですね。どこで鍛えたんですか?」
「日記とブログ」私は臆せずに言った。「老人ホームで介護をしながら書いていた。その頃の文章の方が迫力があるけどね」
「やっぱり、恨みや憎しみがこもっているのかな」同僚の一人が言った。「まあ、そうだろうね」
私達の編集部は介護福祉の業界新聞を作っているが、そういうふうに現場を取材していると、ある日、資格を取って、本当に福祉の現場で働き始める人が一定数いる。「ミイラ取りがミイラになる」。
私は別にそういう人達を咎めないし、むしろ、表層に留まるのを止めて、現場に降りて、物事の本質に触れようとするのは本当に良いと思う。そこで得た経験は、その人の言葉に重みを加えるだろう。人間は言葉だけで生きている訳ではない。
しかし、私自身は現地点ではその可能性は棄却している。本当に福祉の現場に身を埋めると自由が奪われるからだ。確かに福祉業界は公費が投入されているので、安定している。不安定な出版業界で働く若者にとって魅力的に映るのは分からなくもない。かつて、私はそのような若者の一人だった。しかし、福祉から出版から往還した私は分かってしまったのだ。自由と安心はトレードオフの関係にある、と。
文学者または編集者以外に私の存在様式はない。これを肝に銘じて、残りの半生を生きて行きたい。