恩寵の政治学

トーマス・マンの作品は、学生時代に読んで以来、折に触れて読み返している。当時、私は政治学を専攻していたが、マンの作品は、政治学、文学などの専門を越えて、幅広い読みができるのでお気に入りだった。彼の小説、論文、講演は、政治学の一流のテキストとしても読めたのである。たとえば、マンが第二次世界大戦中に、ドイツを追われて、アメリカに亡命している時に書いた小説に『ファウストゥス博士』というものがある。その中で、心に残る一節、あるいは心に引っかかる一節がある。聴衆の前で意識を失った作曲家、アードリーアン・レーヴァーキューンを、彼のパトロンである、シュヴァイゲシュティル夫人が介抱する場面だ。

みんな一緒に出て行きなさい! あなた方まちの人にはまるで理解がないのですね、ここでこそ理解が必要なのですよ! この人は、このかわいそうな人は、永遠の恩寵のことをずいぶん話しました。恩寵が与えられるものかどうかわたしにはわかりません。しかし、よろしいですか、ほんとうに人間的な理解ならば、それは何に対しても十分に足りるのです!

トーマス・マンファウストゥス博士』

二つ気になる点がある。まちと恩寵である。市については、深く追究すると、本稿のテーマから外れるから、また別の機会にしたいが、シュヴァイゲシュティル夫人の言葉を、現代の日本に即してみると、「あなた方、東京の人にはまるで理解がないのですね」と言い換えることができる。このようにマンの作品は、政治学文脈コンテクストで読むことができるのだ。

次に気になる点は恩寵である。マンは『ファウストゥス博士』の執筆の途中で書いた講演『ドイツとドイツ人』で次のように語っている。

ドイツ人の、世界に対する内気さの中には、常に同じ程度の世界への要求が含まれていたのです。ドイツを悪しきものにした孤独感の根底には——誰が知らないはずがありましょう!——愛したいという願い、愛されたいという願いがあるのです。ドイツの不幸は、結局は人間であること一般の悲劇性の範例にほかなりません。ドイツがかくも切実に必要としている恩寵は、われわれすべてが必要としているものなのです。

トーマス・マン『ドイツとドイツ人』

恩寵はキリスト教の概念で、普通、神の人に対する愛、という意味で使われるが、トーマス・マンの恩寵の概念は、そのような超越的なものではなく、私たちの日常の経験に即したもののように思われる。政治学者のシェルドン・S・ウォーリンは『政治とヴィジョン』で次のように言っている。

恩寵は政治学を破壊するのではなく、むしろそれを完成する。

シェルドン・S・ウォーリン『政治とヴィジョン』