Church and Restaurant

このブログには何度か書いているので、読者諸氏はすでにお分かりだと思うが、私はキリスト教徒である。

政治学を専攻していた学生の頃から、プラトンの『国家』、アリストテレスの『政治学』よりも先に、『聖書』を読んでいたので、キリスト教の思考様式には馴染んでいたが、大学を卒業したあと、孤独、貧困、病気に苛まれ、一人の人間として苦悩するようになると、善良で、健康で、凡庸な市民社会の規範から逸れている自分に気づいた。私は市民の資格を欠いており、その社会から排除されていると思わざるをえなかった1

大学生の頃は教授が左翼的、社会主義的な傾向が強かったので、『資本論』『共産党宣言』などのマルクス・エンゲルスないしマルクス主義の著作にも親炙していた。そのイデオロギーは次のとおりである。市民社会において、使役され、迫害されている労働者こそが革命の主体であり、真理を認識する主体である。——マルクス弁証法ヘーゲルのそれを観念論から唯物論転倒させたと言われているが、それよりも思考形式として興味深いのは、マルクス主義キリスト教の近代的表現の一種という事実である。

キリスト教は貧しく、病んでいて、虐げられている人々こそが、神の恩寵を受け、真理を見い出すと説いているが、マルクス主義はこの福音を近代的なイデオロギーとして換骨奪胎させた。キリストの愛は上部構造における精神の問題として、二次的な、非本質的な事柄とされ、それに代わって、下部構造における労働、生産、交換などの経済、すなわち金こそが問題の本質であり、資本主義的矛盾を解決するための手段にして目的、アルファでありオメガであるとされた。

しかし、マルクスの著作にもその萌芽が認められるように、経済は自由の条件に過ぎず、人間の活動、人生の目的の一つに過ぎない。それを過度に追求すると、マルクス自身が指摘し、批判したように物神崇拝フェティシズムに陥る。政治哲学者の南原繁マルクス主義を「浅薄」と言った理由がそこにある。

以上、滔々と書いたが、今日、私は夜勤明けでひと眠りしたあと、千葉の本八幡にある、市川聖マリヤ教会のクリスマス・イブ礼拝に参列してきた。私の母校 立教大学と同じ、聖公会の教会である。0時には聖餐式2が執り行われる。その待ち時間に、私は駅前のガストで原稿を書いている。そういうクリスマスもあるのだ。


  1. 私の非市民的意識はトーマス・マンの影響が多分にあると言わざるをえない。

  2. カトリックにおいてはミサと呼ばれる。