コーヒーの美味い季節になった。私は今では左党のように思われているが、もともとはコーヒー党である。秋の夜長にコーヒーを飲んでいると、次の歌の一節を思い出す。
やがて離れてゆくもの
忘れられてゆくもの
時がすべてを流してゆく
変わらぬなにかを求める想いを
すべてうたかたの夢にして1
昔、ネスレのCMで使われていた小田和正の「good times & bad times」である。当時、幼年の私はコーヒーの味を知るべくもなかったが、鮮烈な印象を残したものである。コーヒーは大人の飲物だ、と。
10年前、所沢で一人暮らしを始めた頃に通った一軒の喫茶店がある。Cafe Ombre2.マスター 鈴木康人さんとその奥さんが切り盛りしている、コーヒーはもとよりスコーンが美味しいお店なのだが、マスターは実に多趣味な方だった。写真が趣味で、店内には飲食の邪魔にならない市民的で趣味のよい作品が飾られていた。読書も盛んで、書棚には荒川洋治などの現代詩が収められていた。たぶん、東大出身だったのだろう。学生時代は政治学を専攻していたらしく、中でも政治過程論に興味を示されていた。
当時の私は小説を書きたくても書けない、出版社に勤める一介の文学青年に過ぎなかった。ある晩秋の夕暮、マスターに開高健の『夏の闇』をプレゼントして貰ったことは、私の人生の記念すべき出来事である。内容はさるものながら、開高健が私の中で特別な作家になった由縁である。
今の私は大して小説は書きたくないが、いろいろな駄文を書き散らす、老人ホームに勤める文士になった。所沢に住んでいた頃の私は青白い生半可なインテリに過ぎなかった。その後、小岩に引っ越して、人生の厳しさを味わい、少し逞しくなった私の姿をマスターに見て欲しいのだが、今では当地にOmbreの姿はない。