あるいは上手く作られた不幸

ストレスが溜まると、むしょうに二郎系ラーメンを食べたくなる。幸いにして、竹ノ塚駅周辺には2軒の二郎の亜流の店舗があるので、いらいらのはけ口に困ることはない。しかし、「はけ口」と書いたが、吐くのではなく、むしろ食うことによって、胃に食物を溜め込むことによって、ストレスを解消するというのは面白い。これは健常者にも普通に見られるが、躁鬱病者に特に顕著に見られる。開高健なんて食いまくっているではないか1。あるいは逆に、吐くことによってストレスを解消するようになると、拒食症まっしぐらなので、くれぐれもしないように。

嘆かわしいことに、今勤めている職場から得られるものは金以外なにもない。しかし、その肝心の金でさえ心もとないのだから辟易してしまう。知識と技術と友人を求めて、転職するのだ。金銭は後から付いてくる。今度こそ、福祉という名の鉄の檻から脱出するのだ。——と、福祉を悪しざまに書いたが、今度の転職は最低でも、就労支援員を目指そう。現行の介護福祉士の資格が評価されるし、何よりも土日祝日なのが嬉しい。もちろん、夜勤もない。精神保健福祉士の資格も取りやすいはずだ。——とはいえ、第一志望は出版社、制作会社のライターである。狭き門であるが、とにかく叩いてみる。門戸を閉ざされたら、そのとき考えよう。

辻邦生の小説に『雲の宴』というものがある。主人公の一人、三上敦子は大学卒業後、某企業の秘書として勤めながら、本来の志望である、出版業界への転職を虎視眈々と狙っていた。その導き手になるのは、もう一人の主人公にして、彼女の親友、フリーランスの編集者である白木冴子であった。——。

私の方が環境も条件も遥かに悪いではないか、と思ってしまうが、視点を少しずらして見ると、案外そうでもない。

第一、私は出版社、編集者の影響をいったん離れないと、みずから文章を書くことができなかった。本質を、本物を知りぬいている先輩編集者を前にして、私はすくみ上って、一文字も書くことができなかった。私は一度、荒野に出て、そこで言葉を拾わなければならなかった。文体を作るということは、そういうことである。

第二、大企業の事務職を勤めていると、Microsoft Office 就中 Wordの使用を押し付けられる。これは出版社の編集室でも事情は変わることなく、この業界のデフェクト・スタンダードはWordとInDesignである。そんなもので、執筆、組版させられると思うとゾッとする。私の商売道具は、KateLaTeXである。プログラマと数学者が好んで使うソフトウェアで、ソースコードを書き、コンパイルすることで、版下原稿になるPDFファイルを生成する。私はこのソフトウェアを使うことで、本格的にコンピュータの使い方を覚えた。ターミナルで操作できるようになった。その点、私のコンピューティングの基礎はライティングと軌を一にしている。いずれも出版社を離れて独学で覚えたものだ。

中村真一郎の小説に『雲のゆき来』というものがある。確か副題が、「あるいは上手く作られた不幸」だったような気がするが、手元に原本がないので確かめようがない。しかし、人は不幸を知ることで、ようやく書くことを覚えるのは確かなことのように思える。そして、同時にその人は幸福を知らなければ仕舞まで書くことはできない。リルケは言った。「幸福を知らなければ神を見い出すことはできない」。不幸は幸福の契機である。真ちゃんの箴言はその逆説をユーモラスに表現している。それはまるで、最初から何者かに仕組まれたかのようである。


  1. 単極性の鬱病者だとストレスを感じると、かえって食欲を喪失することが多い。