BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

階級の恨み

介護について書きたい。というよりも、介護について社会学したいと思ったけれど、これについて具体的に書くと、カドが立つので、今回は抽象的なレベルの話に留めておく。こういうことは普通、その出来事が生起している場所から身を引いて、しばらく経った後に、過去を回顧する形で書くものだが、私は5日フルタイムで働いて、仕事もこなれているので、現役バリバリのように見えるが、その実すでに引退していて、心ここに在らずなので、こうして客観的に書けるのだろう。「ミネルヴァの梟は夕暮に飛び立つ」。

社会福祉法人の特別養護老人ホーム/有料老人ホームに勤務して4年が経つが、周囲の人々にチヤホヤされて、と言うと語弊はあるが、人々の親切と恩恵を享けて、ここまでやってこれたのは事実である。しかし、良いことばかりではなかった。時に人の不興を、憎しみを買うことがあった。世間の人々は祝福された存在に対して、それを認めて愛するか、あるいはそれを妬んで憎むか、いずれかの行動を取る。この双極的な振れ幅はなぜ生じるのか? それは人格のような人間学的な問題に尽きない。明らかに社会科学(社会学)的な問題が存する。つまり、人の好悪という一見、感情的な現象でも、そこには確実に階級的な原因が存在するのである。

私は中産階級の出身である。しかし、高等教育と教養によって、この限界を超えようとした。初めは知識人として、次は芸術家として、自己に課せられた階級的くびきからの脱出を企てた。こういう偏差値を無視した、逸脱した行動は、異常でも何でもなく、知識社会学ないし芸術社会学において、知識人と芸術家の思考/行動様式の典型として認められている。

自己の範疇を超える人物には特別の光輝かがやきがある。知識人と芸術家はその理念型において、超階級的存在である。それは一見、上流中産階級の理想像のように見えるが、全き知識と全き芸術は階級、民族、性別等を超えて、普遍的である。現実としてそれはまだ不完全でも、理想としてはそれが真実であり正義である。本来の知識人と芸術家はそのような思いで仕事に励んでいるはずだ。

しかし、そんな人間が社会に一歩出ると、人々のいつくしみを得ると同時に、おそらくそれ以上の妬み、恨みを買うのも事実である。芸術家ないし知識人は社会的(社会学的)に特異な存在である。彼等は社会の中で特別な使命を帯びているので、大衆の中に居ると目立つ。彼等の毀誉褒貶の対象になるのだ。

私は介護現場で何度もそのような現実に直面した。それは階級の恨みと呼ぶべきものだった。私が世間知らずの初心だったことも相まって、その強さ、激しさに驚いた。そのうちポジティブな感情よりもネガティブなそれにぶつかることが多くなってきたので、結局、私の居場所はここにはないと観念して、この業界から潔く身を引くことにした。彼等の心と同じように、私の心も頑なになったのかもしれない。