アイデンティティ・クライシス

先日、職場でテレビを観ていたら、オリンピックの日本代表選手が、新型コロナの不況でスポンサー収入が激減、運送業のアルバイトを始めたことを明らかにした。彼はインタビューに対して、自身のアスリートとしての意識が危機に曝されている、と沈鬱な面持で答えたが、私は、何を甘ったれているんだ。皆、自分は何者なのか、自問自答しながら働いているんだ。だいたいアスリートが兼業しないで競技に専念できるようになったのは、ごく最近のことだ……。

「私は何者なのか」

これは古くて新しい、そして、根源的な問いである。野心的かつ内省的は人々はこの問題に苦しめられてきたのではないだろうか。逡巡と苦悩が面に表われる。——それは危険な時である。そして、彼/彼女は仕事によってこの問題に回答を与える。——この過程の繰り返しではないだろうか。

前回の記事で言及した、富野由悠季は、アニメの監督、脚本、絵コンテ、作詞、ノベライズに至るまで何でもこなすので、自分のことを「仕事師」と呼んでいた。昔は作家(小説家?)になりたかったらしい。それは願望で終わらなかった。彼は大量の小説を執筆している。

私は一時期、短歌の結社に身を置いていた。そこの同人は皆「歌人」であることが前提だったが、私には違和感があった。他の同人は「歌人」かもしれないが、私は違うのではないか、という意識がつねに付きまとっていた。他の同人は本当に短歌が好きで、短歌雑誌を、歌集を熱心に読んでいた。私も短歌が好きなので、読み書きしていたが、それよりも、小説と評伝を熱心に読んでいた。短歌の結社はいつの間にか辞めてしまった。

私は自分は「文人」あるいは「文学者1」なのではないかと思った。小説家でも、歌人でも、新聞記者でもないだろう。何でも読めるし、何でも書けるのだ。私は芸術家であると同時に学者である「文学者」という存在形式を愛しているのだ。そして、新しく、個性的で、普通の人々に向けて書かれた文学を愛しているのだ。

今後、私は生活に迫られて、様々な職業に就くだろう。いまの私は「介護士」あるいは「ワーカー」と呼ばれている。人間は複数の肩書、複数のアイデンティティを与えられているのかもしれない。ただし、そこには位階ヒエラルキーが存在する。私にとって文学と文学者は、プラトンにとっての哲学と哲学者のように、万物の価値の尺度になるのかもしれない。


  1. 大学制度によって近代化された文人