BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

韻文と散文 歌人と文人

今日は短歌を何首かリライトした。単語を切ったり貼ったり、入れ替えたりすることで、ようやく自分が納得できる一首ができるのが短歌の魅力だ。これは散文にはない、韻文だけに許された楽しみで、小説や随筆の推敲の仕方とは全然違うだろう。散文は「ええい、ままよ」と、時間の制約上、適当な所で妥協するが、韻文は心ゆくまで延々と直し続ける。散文は言葉と言葉のあいだに余裕(遊び)を持たせるが、韻文は言葉と言葉を緊密に連携させる。短歌を書くように小説を書くと、息が詰まる、大変読みにくい文章になる。くれぐれも履き違えませんように。

このブログを書き始めた当初、会社の後輩に「兼子さんは詩句よりも文章の人ですよね」と言われた。その時はもっともな指摘に思われたが、当時の私は短歌を放擲していたのであり、介護労働の辛い現実から逃げ出したい一心で文章を書いていたので、私の能力が全的に解放されていたかは杳として分からない。しかし、才能というものは本人の意志、好悪とは無関係に存在するもので、それに気づいた時は素直に認めるしかない。一言で言うと、短歌は私のネチネチした心情に適っていたのである。

しかしである。自分の行為ではなく、存在を定義する段になると、私は歌人ポエットではなく、文人ライターなのではないかと思う。さきほど、私は文よりも歌の人ではないか、と言った。畢竟、その人は何者かという判断はひとえにその人の行為によって測られる。されば、私は歌人ではないか。

たぶん、私が文人ないし文士に憧れるのは、その存在様式こそが、私の才能を全的に発揮できると期待しているからだろう。歌人に大切なのは学よりも心であるが、一方、文人はよく学問をすることが求められる。これは私の資質に適っているように思われる。私は学者っぽい。学問をしている。これは否定しがたい事実である。

そろそろ政治学に加えて、社会学を勉強したいものだ。