BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

文学の憂鬱

コレと言った原因はないが、なんとなく憂鬱である。人間ひとびとの愛が信じられなくなっている。そんな時は抗精神病薬を飲んで、神経細胞間のドパミン濃度を整えればよいが、たまには憂鬱になるのもいいだろう。小説家の吉行淳之介は「小説を書く時は少し鬱の方がいい」と言っていたが、毎回アゲアゲの文章を書いても、読者に飽きられるだけだろう。毎回、新たに原稿を起こす時は軽い興奮を覚えるが、そもそも文章を書くという行為自体が憂鬱なのである。憂鬱——これが人間の文化の正体である。なので、晴朗な人、絶えず元気イッパイな人には文学ができないのである。

小説を書きたいが、書けないでいる。生活環境、体質、体調などいろいろな要因があるが、まず第一に挙げられるのは勉強不足である。学生時代、小説はたくさん読んだが、卒業後、社会生活を送るにつれて、次第に遠のいてしまった。その代わり、評伝などのノンフィクションはたくさん読んだし、自分でも新聞紙上で盛んに書いたが、文体と構成が安定するにつれて、次のステップに進みたくなった。それが小説である。

小説も取材が必要だが、評伝、ルポルタージュの手法と大きく異なる。新聞記者のように正式に取材ないしインタビューを申し込むのではなく、小説家はさりげない日常の会話から材料を取るような、もっと自然な方法を取る。どちらが「良い」という訳ではなく、作品に応じて、両方使い分ければいい。勤め人からフリーになって、時間の制約上、正式オフィシャルな取材の機会は減るのかもしれないが、その分、作品の質も変わるのではないか。その事態に備えるために、私は今、憂鬱なのではないか、と思う。