私たちが知っていることは一部分、預言することも一部分です。完全なものが現われるとき、部分的なものは廃れます。
『コリント人への第一の手紙』第13章第9-10節
本稿は小田垣雅也『現代のキリスト教』(講談社学術文庫、1996年)をテキストにして、近代神学、現代神学を学ぶ、全5回(予定)の試みである。第1回は本書の第1部「啓示と理性」を参照して、近代神学に主な焦点を当てた。近代神学、特にその嫡子とも言える自由主義神学の成果と問題を考えてみたい。
哲学の侍女
小田垣は神学の基本構造を説明する時、「上から」「下から」という言葉を使う。本書第1部のタイトル「啓示と理性」はその端的な表現であるが、これについてもう少し詳しく見ていこう。
「上から」すなわち、人間が神から賜るものは、啓示、御言葉、恩寵などと表現される。いずれも人間の意思、思惑から離れた、神の愛、恵み、慈しみを表現している。
一方、「下から」は、人間が自然本性的に、自ら備えている、とされているものである。理性、意思、情念などである。小田垣が指摘しているように、これらは近代思想の中心概念である。
人間には自由意思が存するという仮定は近代の自由主義を発達させ、主体に責任を追及することで、民法、刑法の基礎を作った。また、絶対王政など専制国家の抑圧から人々を解放する根拠を用意した。情念はロマン主義の根拠として、芸術を促し、理性は知識の源泉であると同時に、市民社会の道徳的規範となった。
教父神学、スコラ神学は「上から」の神学とされる。それは自然の被造物たる人に対する神の恩寵を強調するからだ。「恩寵は自然を破壊するのではなく、むしろこれを完成させる」。一方、イギリス経験論、ヘーゲル弁証法の影響を受けた近代自由主義神学は、人間理性によって神を認識しようとする。人の絶対精神を前に、神の啓示は出る幕がなくなったのである。
ここで注意しておきたいのは、近代神学の哲学偏重の傾向である。聖書の中でパウロが、宗教家、信仰者はむやみに哲学に頼るべきではない、と戒めたにもかかわらず、近代神学はその時代の哲学の流行を取り入れて成長・衰退してきた。中世の頃、哲学は「神学の侍女」と呼ばれていたが、近代では立場が逆転し、神学は「哲学の侍女」になった観がある。
救いのない世界
この世界の現象(事象)がすべて、人間を中心とした被造物の働きによって生起しているとすれば、神のこの世界に対する働きは、ことごとく否定されることになる。啓示が認識を助ける余地がなくなり、恩寵が存在を助ける余地が無くなるのである。このような世界では秘蹟は起こらないばかりか、求められることもない。近代自由主義神学の最大の罪は、この世界に生まれた子なる神であるキリストを否定したこと、そして、聖霊なる神の働きを否定したことである。結果、神の三位一体は否定され、その宗教はキリスト教であることを止めるだろう。19世紀のアメリカでユニテリアンが勃興した理由は、このような背景があるのかもしれない。
カントの物自体
小田垣が近代思想で唯一評価しているのは、カントの批判哲学である。その認識論は、理性は物自体ではなく、その現象のみを捉えることができる、ということである。このような絶対知に対する諦念は、近代思想を超克し、現代思想を準備しているといっても過言ではないだろう。ポストモダニズムと格闘している小田垣は、カントのこのような無知の知に共感したのかもしれない。ヘーゲルの絶対精神による弁証法とは対極的な、このような控え目な認識論こそが、宗教家、神学者が取るべき本来の姿かもしれない。私達は時に神と共に居るが、神を知ることはできない。
シュレーディンガーの猫
物自体と現象を明確に区別したカントの認識論はおそらく、現代神学を越えて、さまざまな学問に影響を与えていると思われる。
たとえば、現代物理学、特に量子力学の思考実験「シュレーディンガーの猫」においては、人間は自ら拵えたハコとガイガーカウンターを認識できるだけで、ハコの中にいる猫そのものは認識できず、その生死さえ不明のままである。人間は自ら考案した虚数を用いて計算し、仮説を立て、自ら巨大な施設を立てて、実験する他ない。人は猫も神も知ることはできない。ただ一瞬のあいだ捕えて、メスで、槍で、その体に傷痕を残すだけである。