下層社会の定義を求めて、いろいろな書籍を漁っているけど、未だに厳密な定義が見つからない。そもそも横山源之助が『日本の下層社会』(1899年)を執筆した頃から、その概念は曖昧模糊とした、センセーショナルな極めてジャーナリスティックな概念だった。もとより社会科学は動的な現実を定義するために、究極的には観察者の主観に依存せざるをえないけれども1、「上層」「下層」という表現は、あまりに観察者の価値判断に頼りすぎだと思う。新聞、雑誌、新書の類、すなわちジャーナリズムでは流通できでも、厳密な定義が要求されるアカデミズムでは使用に耐えないのではないか。そもそも「下層社会」という表現を使うこと自体に何か後ろめたいものを感じる。
それでも、横山源之助の生きた頃から下層社会は存在したはずで、彼は先の著作の中で、それに含まれる「芸人社会」という言葉も使っている。日本という国家の下に、複数の社会が存在することを理性と感性の両方において看取していた訳だ。「市民社会(bürgerliche Gesellschaft)」という言葉は、佐野学のマルクス『経済学批判』の翻訳(1923年)で初めて使われたが、それ以前に幸徳秋水と堺利彦が『共産党宣言』の翻訳(1904)年で、「紳士社会(bourgeois society)」と訳している2。事物の概念は、思想家が抽象的、恣意的に発案するのではない。現実との格闘の末にようやく掴むものなのだ。「紳士社会」という言葉も、明治の日本社会の中では極めてリアリティがあったのだろう。社会の分断は当時から深刻だったのである。